21世紀の1/5が終わりかけているこのご時世,機械翻訳の影響力は日々勢いを増している.これまでは熟練した翻訳家や通訳,バイリンガルしかできない仕事を代わりに,しかもタダでやってくれるのだから普及しないわけがない.Google翻訳を筆頭としたこれらのサービスによりグローバリズムは益々促進され,資本主義が全世界を覆い尽くすだろう.
だが,これはかなり危険な流れだと思う.例えばGoogleが存在しなくなったときの世の中を考えてほしい.まず彼らはオープンソースでサービスを提供しているわけではない.もちろん,データは極秘裏に保存されている.古今東西,情報の重要性は普遍だったが,21世紀においてそのプレゼンスは最大限に高まっている.これを無条件に公開するわけはないし,仮にGoogleがそれを試みてもアメリカ政府が待ったをかけるだろう.
それが死んだとき,どうなるだろう.何らかの理由でGoogleやMicrosoft,インターネット,ビッグデータが消え失せた場合,その叡智の復活は困難だろう.今までコミュニケーションできていた人たちは一夜にして分断される.簡単なやりとりならまだいい.オフラインに保存してあるデータでなんとかできるかもしれない.しかし,これらのシステムは基本オンラインで最高のパフォーマンスを発揮する.大企業は翻訳家を雇えばどうにでもなる.しかし,グローバルに商品を提供したい中小企業は困窮必至である.高精度の翻訳をタダで頼り切った代償といえば,少し冷たく聞こえるか.悪いことばかりではない.各国語に翻訳される詐欺サイトも撲滅されるだろう.悪質なフィッシングメールも届かない.それでも彼らは図太いので,混乱に乗じてまた悪質な方法を考えそうだ.
他に改竄のリスクもある.いま,すでに起こっているかもしれない話だ.ある国の言語の"好き"を"嫌い"と訳してしまうことができる.どこかの大統領の"戦争はしない,我々は平和を求める"という発言を"戦わざるを得ない,数分後に核ミサイルを撃ち込む"にしてしまえば,世論を操作して人民の敵意を特定の物に向けることもできる.これを個人レベルで使えば,特定の人間との交渉を破談に持ち込める.それは政府レベルでも行われるだろうし,ハッキングによっても行われる可能性がある.誤解は数分で解けるかもしれない.だが,その時すでに戦争は終わっているのだ.これは陰謀論の範疇だろうか.そうではない.中華人民共和国は検閲のために現在,機械翻訳を利用しているだろう.外国語のサイトでも,それが人民にとって相応しくないのなら,このサイトは見られない,と置き換えてしまうのだ.
機械翻訳による一連の功罪は,創世記に書かれたバベルの塔の話を思い起こさせる.人類の言語の統一,夢のような話だが,それが国家や企業が独占している以上,いつしか塔は崩れ,残る人たちには強い痛みが待っているだろう.真におそろしいのは,塔の崩壊が何百年語の未来,翻訳家がいなくなったあとにはじまることだ.こうなれば,人類はもはや,分かり合う言葉を持たない.
私は機械翻訳によってマイナー言語や民族独自の文化が守られると思っている.少数言語の話者が無理に多数派の言語や風習を覚える必要がなくなるからだ.言語は常に完璧な形でお互いに翻訳されるから,クレオール言語は生まれることはない.今でこそ,メキシコ系と中国系がお互い片言の英語で話しているが,それはやがて機械の力を借り流暢なコミュニケーションに変わる.そして,それが終われば,訪れるのは完全なる断裂.刹那にして隣人と会話することができなくなる.その後,起こるのは民族間での殺し合いか.古代以前の戦乱の世が蘇る.
そうなれば,かつてのローマ帝国の崩壊,暗黒時代など大した話ではなく,文明レベルは一気に後退し,学問の進歩が停滞することが予想される.それまで人々がコミュニケーションのために使っていたのは自然言語ではなく,ソフトウェアによって提供されていた人工言語だから,ソフトウェアが消失したら復興の話し合いすらロクにできなくなる.
ここで英雄が舞い降りる.言語オタクたちである.彼らはもうすでに役に立たなくなった言語を研究し続けていたが,それは笑いものだった.古典的な趣味の代表が語学学習だった.そんな彼らはその時代においてトップクラスの収入を得られる.すべての人々の間に橋をかけ,手を結ばせる.やがてはシステムは復旧し,技術は再発見されるだろうが,それまでに何年かかる?
正直,後半部に書いたカタストロフが起こるとは思えない.それまでにオフライン下でも完璧に使え,しかも特定の団体に属さないオープンソースな翻訳機が作られる(ことを願っている)はずだ.だが大企業は優秀な技術者を引き抜いて,それを防ごうとしている...というこの記事のような内容のSF小説があったらとても読みたい.